院長ご挨拶

地域づくりに貢献する
令和7年
平戸市民病院 院長
押淵 徹
再度、国民健康保険平戸市民病院長に復帰いたしました。
令和4年3月31日をもって、平戸市民病院長を退任致し平戸市立病院名誉院長の称号を頂きました。体が続く限り、市民の皆様方の健康づくりのお手伝いをさせて頂き今日に至りました。堤院長が退任されましたので、後任の、新進気鋭で病院運営をお任せすることのできる方にお渡しするまで当分の間、小生が病院を預かることになりました。
どうぞよろしくお願いいたします。
紐差病院長に任じられた昭和60年の頃は・・
私は今をさかのぼること38年10か月前、昭和60年6月に平戸市国民健康保険紐差病院長に任じられました。その頃の日本は高度経済成長の時期でした。日本国中は活気にあふれ、若者たちは職を求め都市部に向かい、平戸市の中南部は残された大人たちが第一次産業(農・漁業)で生計を立てる、そのような地域でした。成人した若者が都市部に流れ出るため、平戸市中南部地区は日本のどこよりもはやく高齢化(65歳以上の方が人口の21%を上回る)が訪れている地域でした。“身体が資本、身体が丈夫であれば80歳くらいまでは定年のない職場がこの地にはある、”働くことのできる初老期に病気になって、家族の助けを受けなければ生活ができなくなることを避けたい”そのような市民の皆様の気持ちに寄り添い元気な高齢者を育成する紐差病院になろう、と病院運営方針を定めました。
「元気老人の創出」を合言葉に
これは私が作った合言葉です。青壮年(30歳代から60歳代)の時期から健康に関心を持ってもらい自ら健康づくりに取り組む、そうすることでせめて80歳頃までは他人の助けを借りず働くことのできる身体で居よう、との目標実現に紐差病院は働こう、と決めました。その頃の日本は、感染症(肺炎・結核・胃腸炎など)で命を落とす方が少なくなり、代わってがん・心臓病・脳卒中で命を落とされる方が7割を占める時代に代わっていました。いわゆる生活習慣病です。
生活習慣病対策こそ「元気老人の創出」
健康診断で生活習慣病の早期発見・早期治療に取り組むことを第一の目標にしました。感染症治療がそれまでの病院の役割であったため、このような取り組みをしているところがなく、市民の皆さんはもとより、病院職員にも、平戸市医師会の皆さんにも“変なこと言いだす奴だな・・・” ”こんなことは病院の仕事ではない”と怪訝(けげん)に受け止められました。市役所の管理職のかたから「病人がいなくなれば病院は潰れる」とまでもいわれました。しかしながら理解を示す方々の有難い激励の言葉を頂き、開始から5年後には県内で最も健診受診率が高い地域、一人当たりの医療費が低い地域になりました。健康な方が多くなってきた証拠でもありました。また、中南部地域の6~7割の方々が病院を利用し健康づくりに励んでおられますので、それを反映して病院は黒字経営です。
高齢社会を迎えた平戸市
膨大な赤字を抱え運営が困難になった平戸市立南部病院(津吉町)と紐差病院は合併し平成8年4月、現在の国民健康保険平戸市民病院が発足しました。南部病院から持ち込まれた膨大な赤字を新病院で清算しながら超高齢社会を支える病院づくり(市民生活を蝕む疾患・負傷の予防・治療、療養病棟設置、介護医療院設置、保健・医療・福祉・介護の一体的提供=サンケア平戸併設、在宅ケア=訪問診療・看護・リハビリ・通所リハビリ)に職員一丸となって取り組んでまいりました。
平戸市中南部は日本のどこよりもいち早く高齢者の割合が多くなった地域です。その方々が抱える疾病は、歳をとって身体機能が衰えてきた老化と混ざりあり完治は望めないのが現在の医療界の常識です。そうであるからこそ、世界のどこよりも早く介護保険制度が作られました。それは、生まれ育ち成人となって全身をなげうって子々孫々を育ててこられた方々がいよいよ他人の手助けを受けなければ地域での生活ができなくなった折に社会で支える制度です。その介護保険制度にもわが平戸市民病院は礎となって支えてきました。
老骨を鞭打って
私も78歳となりました。後期高齢者の方々のお気持ちを、身をもって理解できるようになりました。若者たちとの橋渡し役を執り行いながら病院運営の先頭に立ち頑張ろうと思っております。
(ちなみに、40歳で平戸市に着任したおり「医師とカボチャは古かほど良か!」と、若造は信頼を受けなかったのです。やっと信頼していただけるでしょう!!!か?)