田川七左衛門外伝

田川七左衛門外伝

 

 鄭成功は平戸出身の中世の英雄です。明国人の父鄭芝竜と日本人の母田川マツを持ち、台湾では孫文や蒋介石に並び称され「三人の国神」とされています。今回は、興味があってその鄭成功を調べるうちに知った郷土の話と物語をします。僻地と言われるこの地が中世において光り輝いていたと知ると嬉しくなります。

以下の話では、誇張や想像が少々あるかも知れませんが、諸賢に於かれては首を傾げながら読んでいただきたいと思います。

先日有田焼(鍋島藩)波佐見焼(大村藩)三川内焼(平戸藩)の境界となる三領石に足を運びました。平戸焼ってなんだと思っていましたが実は平戸焼イコール三川内焼でした。三川内焼は文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際に松浦鎮信、久信親子が朝鮮から多くの陶工を連れて帰ってきたことから始まったそうです。ならば、有田焼も波佐見焼も三川内焼も平戸のお殿様のおかげということになります。この碑は後に窯に使う薪で争いがあって設置されたそうですが、私は佐世保が元平戸領とわかり嬉しくなりました。平戸藩は西九州の覇者でした。

 ここに『西海の覇王』という小説があります(写真)。松浦水軍から西九州の豪族となり戦国大名にのし上がった松浦隆信(道可)、そして秀吉、家康の間を上手く立ち回り平戸藩6万3千石を確立した鎮信(法印)が描かれています。

鎮信は息子久信と朝鮮で小西行長に仕え、八面六臂の活躍であったそうです。平戸城は朝鮮出兵後、出城の名護屋城を解いた後を使用して作られました。家康の時代になると禍の元と判断、折角の平戸城は自ら燃やしています。機を見るに敏であり、経済活動においては危ない橋も渡ることも厭わないのです。

田川七左衛門


田川七左衛門は田川マツの父、鄭成功の祖父です。なんと彼は平戸市民病院の祖なのかもです。日本初の病院は大分に大友宗麟のもと、1548年アルメイダが設立しました。内科、外科、ハンセン氏病に対する診療科があったそうです。アルメイダは翌年五島を訪れ宇久純定を治療した記録がありますので(宇久は平戸領)この頃平戸に宣教師による診療所があっても不思議ではないでしょう。
七左衛門は堺の商家の生まれで小西行長に仕えたとあります。文禄・慶長の役に従軍し関ヶ原では西軍に参加、敗北し平戸に逃げ落ちています。『国姓爺鄭成功』(写真)によると七左衛門は紐差にあった教会付属診療所に勤務しました。1614年の幕府による禁教令以降ポルトガルやイスパニヤ人が退去すると紐差は寂れ、変わって川内が繁栄しました。七左衛門は14年ほど紐差にあって診療にあたり松庵と称していましたが、地域に根ざした医師に成長し、信用を得ていました。

当時、西日本や西南諸島における交通手段は船ですから広い内陸都市より機能的な港湾を持つ都市が発達しました。それで今では僻地、田舎と言われる紐差や川内も国際的な町になりえたのです。松浦氏は莫大な利益をもたらす貿易を重視し、幕府の監視をかいくぐっていたと考えてしまいます。平戸の津々浦々には明国人が住み、外国人目当ての遊郭が川内丸山の岬にあったほどでイギリス人やオランダ人も闊歩していました。また余談ですが、今の明の川内町は江戸時代に行儀の悪い明国人海賊が集められてできた集落だそうです。
禁教令の後ですから1615年頃でしょう。平戸藩では川内に公立診療所を設立する話が生じます。松庵は紐差時代からの友人、朱印船貿易商小川理右衛門に口説かれます。「どうであろう松庵殿。この話は町年寄の助太夫殿も賛成なのじゃ。あなたが、その気であれば、私から松浦候に言上するが。」川内にこうやって平戸藩立診療所ができたのです。

七左衛門と松浦久信

田川七左衛門は小西行長の家臣、久信は父鎮信と朝鮮に従軍しており二人とも小西隊所属です。歳も近く二人は身分に違いこそあれ戦友でした。秀吉の死後、平戸は家康側につくことを選択しましたので、小西行長とは敵味方となってしまいます。しかし、関ヶ原での小西行長斬首の報に接した久信は七左衛門救出に向かいます。こうやって無事に七左衛門は平戸の地を踏んだのでした。

平戸市民病院 医師 堤 竜二