平成23年3月11日午後3時5分頃は、東京都港区浜松町の全国国保診療施設協議会本部事務局にて会議中であった。いつもの東京で経験する”ゆれ”と違う 地の底から突き上げるような大きな揺れが始まった。一瞬、枠組みに固定された厚手の窓ガラスが外れんばかりの大揺れが続いた。会議参加者は会議机の下に身 を潜めひたすら揺れが収まるのをじっと待つ以外に術もなく「アーこれでわが命は終わりなのかな~」と、一瞬頭をよぎった。しばらくして揺れが小康状態に なってから事務局に有るテレビの報道に見入った。東北地方の地震被害、津波発生の惨状を刻々伝えていた。それから国診協事務局では、あらゆる手立てを駆使 し私たちの仲間である東北各県の国民健康保険診療施設の被災状況を各県国保連合会のご協力を得て調査し、同時に全国に義捐金募金の呼びかけと、人的物的支 援活動を開始した。東北各県の数ある被災診療施設の中で宮城県気仙沼市にある国保診療施設では、1階部分が津波で浸水し全ての診療機器が壊滅した。加えて 勤務していた医師が大震災を機に退職して診療機能はまったく麻痺状態との知らせを受けた。この気仙沼市の北のはずれの谷あいにある地域には、住民約1万人 が生活していて、海岸に面したこの町の約半分の地域は全壊の惨状であった。私が支援に赴いた病院はその地域唯一の医療機関であった。
平戸市民病院や生月病院のように全国にある国保診療施設は、大半が離島へき地中山間地域の医療提供体制が整っていない地域(医療過疎地)の医療を担う目的 で建てられ運営されている。置かれている地域住民の生活を支える医療(保健・福祉・介護全ての分野の基盤となる医療)すなわち地域包括医療・ケアを実践し ている住民生活にはなくてはならない診療施設で
ある。
被災にあった地域の隣町、岩手県藤沢町の民宿を拠点としてレンタカーで片道約30分かけてその病院に通った。全国から募った2人の医師で一日置きに病院の 病室に宿泊し当直もする体制で臨んだ。診療応援に出かけた時期は大震災から約2か月過ぎていて慢性疾患を持っている方々の診療が主であった。病院を守って おられた職員の方々は、どなたも自分自身や家族親類縁者のいずれかの方々に大なり小なり被害にあわれておられたであろうが、皆さんその悲しみを胸にしまい こんで毎日勤めておられる様子であった。その病院の1階にある診療機器は壊滅し外来部門は浸水の被害にあった後、地元の消防団を中心にきれいに清掃作業が なされ何ら不自由を感じなかった。活動した地域は、超高齢者の多い地域であり、体力的に復興作業には携わることができない方は、避難所でじっとして狭い空 間で毎日を過ごしておられた。これらの方に避難所に出向いての訪問診療も行った。このような危機存亡のときこそ、住民の生活を支えるため身命を賭すことが 私達に課せられた役割と思い診療支援活動を行ってきた。
東日本大震災の被災者の皆様へ
癒えることのない悲しみでありましょうが、何卒被災地の皆様方のお心安らぐ時が一日も早く訪れることを、遠き平戸の地からひたすら祈念しております。